先日、丹波のとある神社を訪れた。
苔むした参道。
空を覆う杉の木々。
長い年月を経て佇む社殿。
そこは、まるでタイムスリップしたかのような場所だった。
境内に足を踏み入れた瞬間、不思議な圧を感じた。
怖いわけでも、拒絶されているわけでもない。
ただ、好奇心だけで気軽に立ち入ってはいけない場所なのではないかと思った。
昔の人々が何を畏れ、何を信じ、何に祈りを捧げてきたのか。その積み重ねが、今もこの場所を守り続けている。
そんなふうに感じ、挨拶をして早々に立ち去った。
神社を離れてからも、あの感覚はしばらく心に残っていた。
その帰り道、店に戻った。
グリルの上でパティが焼ける音。
石臼挽きの粉からつくるバンズの香り。
一つのバーガーが形になっていく時間。
神社とはまったく違う場所だ。
けれど、ここにも言葉だけでは説明しきれないものがある。
バーガーは、肉とパンを組み合わせれば完成するわけではない。
ひとりひとりに合わせセレクトしたパティや具材。焼き加減、バンズの温め方、素材の重なり、ソースの量など。
レシピや数字、技術は大切だが、最後には自分の感覚で判断する瞬間がある。
何が正解か。
何が売れるか。
何が世間に受け入れられるか。
商売をするうえで、それらを考えることは必要だろう。
けれど、それだけを基準にしていたら、自分が表現したいものから離れてしまう。
他人に任せるのではなく、自分でつくること。
そこに、自分の感性を込める意味があると思っている。
私は、流行に合わせたバーガーをつくりたいわけではない。
自分が美味しいと思えるもの。
自分が面白いと思えるもの。
そして、究極のバーガーとは何なのか。
その答えを探しながら、自分にしかつくれないものを追求していきたい。
それが誰かの記憶に残る一食になればいい。
神社で感じたものと、バーガーをつくるときに感じるものは、同じではない。
ただ、どちらにも、簡単には割り切れない何かがある。
神社には、長い年月をかけて積み重ねられた人々の祈りがある。
店には、これまで積み重ねてきた時間と、ものづくりへの思いがある。
目に見える形だけが、すべてではない。
だからこそ、私は自分の感性を大切にしたい。
誰かに理解されるために、感覚を曲げる必要はない。
多数派と違っていてもいい。
効率が悪くてもいい。
すぐに理解されなくてもいい。
もちろん、自分の感覚がいつも正しいと言いたいわけではない。
世の中の基準を知ることと、その基準に自分の生き方を委ねることは違う。
自分が何を感じ、何を大切にし、何を形にしたいのか。
その答えを、他人の評価だけに委ねたくはない。
丹波の神社で感じた、あの不思議な圧。
そして、バーガーをつくるときの感覚。
どちらも、誰かに証明するためのものではない。
自分が感じたものを、自分自身が否定しないこと。
自分の感性で、自分にしかつくれないものをつくるために。



